碧南市藤井達吉現代美術館 藤井達吉について

飾り 講演録「藤井達吉の芸術」【8】

愛知県美術館企画普及課長(講演時) 木本 文平氏

 そういう中で、ちょっと話がだんだん横道へずれて行きますけれども、藤井というのは、若かりし頃セントルイス万博に行って、そのときにボストン美術館の作品を見て、以降美術の方にめざめたということになっております。その中で、東西の美術の交流とか、そういうのを見た中で、本人自身はじゃあ日本美術しか知らないのかなあと思っていたら、とんでもない話でして、実は昨年、私、前田寛治展を担当しまして大正9年のときに、『中央美術』という美術雑誌がございます。当時の『中央美術』の中に大正9年、大正12年ですね。ベルスミスというフランス人が、フランスの美術展を招聘して、現実に本物の19世紀から20世紀初頭のフランス美術を日本へ持って来るわけです。大正9年、大正10年その中に、アングルから始まってクールベ、セザンヌ、ゴッホ、マチス等ありとあらゆる19世紀末から20世紀初頭のフランス美術の本物が日本に来たわけです。そのときの作品展評に藤井達吉は『中央美術』の中に寄稿しています。ちなみに『中央美術』に原稿を寄せた作家たちの名前を申しますと、安井曽太郎、梅原龍三郎、岸田劉生、文人では志賀直哉。その中に混じって藤井達吉が載っているわけです。つまり、これを見ても、当時、大正12年の『中央美術』7月号ですね。それにもう藤井は、アングル、クールベ、セザンヌ、ゴッホ、ルノワール、マチス。それについて注目しているわけなんです。そういう中で、見るべきものは彼自身はアングルを推していましたけれども、実はその時代の作家というのは妙にアングルばっか推しているんです。前田寛治もそうだったんですけれど。そんな中で、マチスとか、後、マチスについては、マチスの手がけた仕事は日本の中で既に行われているというようなことを藤井自身は語っておりますが、そういう意味合いで行きますと、藤井というのは、洋の東西全てに渡って目を光らす。そういう中で自身のオリジナリティー、そして、日本独自の美術のあり方、そういうものを非常に模索していたんではないか、そのように思いますし、そして、これはぐっと飛んでしまいますが、戦後の作品に≪水・火屏風≫がございますね。この六曲一双の屏風。あの屏風の作り方、これ現代風に見たら、ドロッピングというんです。これはジャクソン・ポロックとか、アメリカの抽象表現主義の代表的な作家なんですが、その辺が手がけた仕事なんで、有名なんですけれども、藤井はもちろんポロックの仕事より早くそのドロッピングの仕事を手がけているんです。ありとあらゆる技法的なものは、藤井は全ての面において先行している。そういうことが言えるんじゃないでしょうか。それだから、あまりにも早過ぎて理解されなかったんじゃなかろうかというのが、私自身の見解です。
 これで時間が迫って来ますので、まだまだあれですけれども、まあ藤井は創作活動を展開させる一方、『中央美術』『アトリエ』『工芸時代』この辺に展評とか批評をどんどん載せてたんです。その当時の批評を読んでみますと、今の新聞批評よりとても面白いです。まあ稚拙といえば、稚拙なんですが、面と向かって相手を罵倒しているんですね。「お前の作品は駄目だ」「ここが駄目だ」と喧嘩をうっているわけです。今の新聞の批評は全然喧嘩をうりませんからね。後で文句言われないような批評を書くわけです。ところが、当時の批評というのは、傷つけちゃうんです。「お前のは駄目だ」「こんな仕事は駄目だ」徹底的にやるわけです。藤井さんの展評も、まさにそれなんです。ですから、それに対して、またお返しが来るわけです。雑誌とかそういう紙面を使って、まさに言葉の壮烈なバトルが繰り広げられる。そういう中で、彼自身非常に純粋な人だと思うんですね。いろんな部分で傷つく部分があったのか、みなさんご存知のとおり、昭和の初期になりますと、中央の工芸界から去って神奈川県の真鶴、そちらの方に移転して中央と隔たりというか、距離をおこうとしたわけです。
 まあ、そういう中で、新たなパトロンということで、おかしいですけれど、ここでよく知られているエピソードとして、当時の陸軍参謀司令官の杉山元帥ですか、杉山元帥の話は、一説では、藤井さんが媚びを売ったというような説もあるようですけど、そうじゃなくて、実のところ杉山さんの方から藤井さんに近づいた。いわゆるその杉山元帥が戦地へ赴くとき、まあ戦地の慰めということで、一幅の掛軸をもらった。それが非常に何か心を打つものがあった。それでこの作家、何だということで、杉山さんの方から藤井達吉の名前を知って尋ねて来たという話です。そして、昭和17年、皇族がご結婚なさるということで陸軍、海軍のそれぞれの省から献上品があったのです。海軍は横山大観の作品を、そして、陸軍からは藤井の作品を贈ったのです。これは、当時の藤井の実力を物語るエピソードではないかと思います。残念ながら、藤井のその屏風というのは、献上されたまま、どうなったのかわかりませんが、その中に合わせて献上された飾り箱。それが回りまわって、最近瀬戸市の方に収められたという因縁がございます。それはいろんなことがございますが、藤井さんの後継者として、七宝の方の後継者として目をかけていた勝利彦さんが藤井のデザインで実作したようです。余談ですが、その勝さんの息子さんは伝統工芸の方で今活躍してみえます。そういう風に次から次へと、次の世代、次の世代ということで芽をふいているようです。
 まあ、そのような話から主題がどんどんずれて行きましたけれども、藤井さんというのを支える人々、特に戦前の支える人々の話をしたのです。戦後の場合は、岡崎の中村さんとか、ここにおみえになります平岩さんとか、長田さんとか、いろんな方々が藤井さんを支えてみえたわけです。藤井達吉が、仮に、現在生きていましたら、実はとんでもない作家になると思います。つまり、話は先に戻りますが、琅玕洞という日本で初めての画廊があります。これは高村光雲が息子、光太郎のために生活の支えになるように作ってやった画廊なんですけれども、そこで、藤井さんが作品を発表したわけです。そのとき発表した作品は、ムシロに色々な雑器をくっつけた壁掛けだったのです。この作品を見た高村豊周(たかむらとよちか)、彼は高村光太郎の弟でございますけれども、東京美術学校の彫金科の学生だったんですが、学校では教えてもらえない作品や発想を藤井作品の中に見たんです。目から鱗という状態であったと言います。 <以下次の頁へ続く>

碧南芸術文化振興会設立総会記念講演(講演者:木本 文平氏、期日:平成13年2月)
(『碧南藤井達吉芸術文化現代』第1号〜第3号を補訂)

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