講演録「藤井達吉の芸術」【5】
愛知県美術館企画普及課長(講演時) 木本 文平氏
ここでもう一度芝川さんについて語りますと、長年藤井達吉を研究してみえました山田光春さんの『藤井達吉の生涯』の中に、実は「中田」という名前で登場して参ります。これは私も、山田光春さんのお調べになった資料を光春さんお亡くなりになった後、実はご遺族の方から、光春の遺言で「これを継ぐのは木本だからということで、木本に渡せ」ということで、光春さんのデータというものを全部私頂いたわけです。もう一度チェックしてみましたら、それは藤井さんからとか、その周辺から聞き語りでとっているわけです。そのときに、事実、藤井達吉は、山田光春さんにその有力なパトロンのことを「中田」と言っているわけです。これは何故かと言いますと、ぼくはいろんなことを調べて行くと、藤井さんのコレクションは様々な変遷があるわけですが、コレクションの変遷の中で藤井達吉の心を痛めたこととか、人への思いやりということから、敢えて実名を出さなかったのではないか。つまり、実名を出すことによって、その人の相続問題とか、そういうものが現実問題として藤井さんの中にあったみたいです。そういった様々なものに配慮して、実はわざと実名を伏せたのではなかろうかというのが私の推測です。これは、まあ藤井さんのある種の思いやりというような形と考えています。その「中田」こそ実は、日本の近代洋画のパトロンとして第一人者とされている芝川照吉だったんです。これには世に言う『芝川ノート』というのがございます。実際はこれは美術史家の佐々木精一さんという方が日動出版の『絵』という雑誌に日本のパトロンということで、ずうっとその洋画家のパトロンたちを列挙しています。その中で5回連載で芝川照吉を取り上げています。芝川照吉といいますと、石井柏亭の初期のパトロンということで有名ですが、実は、岸田劉生と藤井達吉の二大パトロンだったんです。先ほど、大正12年と申しました。大正12年の9月1日は関東大震災ですが、その関東大震災の起こる1か月前に、芝川照吉が亡くなっています。ですから、芝川家の出納帳を調べてみましても、大正の初めから大正12年、芝川照吉が生きていた段階までの藤井の作品がコレクションされているわけです。そういう意味では、現在残っています芝川コレクションというのは、時代設定、制作年代の設定がはっきりしているわけで、コレクションされた藤井作品に大正12年以降のものがないという背景があるわけです。その『芝川ノート』の中に記された非常に印象に残る言葉があります。芝川照吉が病に伏しておりまして、亡くなる1か月前ですけれども、近所に火が出たのです。そのときに、「火というものは怖い。もし、火が出たら真っ先に持って逃げてもらいたいものが二つある。ひとつは劉生のコレクション。もうひとつは藤井達吉の作品。このコレクションだけは絶対に火から守って欲しい」と語っています。このことは、調査のときに芝川照吉の自筆のノートを読んでおります。そういう中でいきますと、これはちょっと余談になりますが、その芝川照吉の集めた藤井コレクションとは、実は震災にすごく強いではないか。つまり、関東大震災も難を逃れ、東京大空襲・大阪大空襲も難を逃れ、そして、いまのコレクターというのは、現在のご遺族は、神戸におみえになります。先の阪神大震災も、実はそのお宅の通りの手前まで全部崩壊なんです。そういう意味合いでは、こう言うのはなんですけども、愛知県美術館では藤井達吉のコレクションを持つことが、震災よけになると言われています。絶対強いよ。藤井達吉を持つことは、もう地震から強いコレクションなんです。いま、大量にお持ちの方、大事にお持ちになりますように・・・魔よけになります。これは余談ですけど。 <以下次の頁へ続く>
碧南芸術文化振興会設立総会記念講演(講演者:木本 文平氏、期日:平成13年2月)
(『碧南藤井達吉芸術文化現代』第1号〜第3号を補訂)
