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講演録「藤井達吉の芸術」【3】
愛知県美術館企画普及課長(講演時) 木本 文平氏
とくに最初の話は、もうここには数々の生き証人がおみえになりますので、私が下手なことを言うと、話している最中に「それは違うぞ」と言われ、立場がなくなってしまいますので、主に、東京時代の調査で分かったことを、既にご存知のお方があるかもわかりませんけれども、それを中心に残された時間、話を進めて参りたいと思います。
話に戻りますと、昨今、この藤井達吉について、再評価の気運が高まっているということはどういうことかと申しますと、実は、最近の藤井の取り上げ方というのは、例えば1993年(平成5年)ですが、宮城県美術館で、『近代の文人画展』に藤井達吉の墨絵作品2点と、≪夢に見し山≫という彩色画1点作品ですが、この作品が出品されていますし、そして、1995年(平成7)には、三重県立美術館で『二〇世紀美術再見。-1920年代展』には主に大正期の工芸作品を中心としたものが出されています。そして、昨年2000年(平成12)、新潟県近代美術館で、『ナビ派と日本』という展覧会でも藤井作品の大正期初期の工芸作品が出されています。
このことからも、いま、私たち美術関係者で大正期における藤井の存在、藤井達吉の作家像というものが改めて注目されています。それは何故かといいますと、ここには工芸の専門家がおみえになりますが、明治から大正にかけての工芸というのは、ある程度型にはまった工芸の中から生まれて来たわけです。いわゆる手本とか模写とかそういうものが制作の中心になって来たんです。ところが、明治の末に雑誌『スバル昴』に発表されました高村光太郎の「緑色の太陽」。高村光太郎は、色は何色に見えてもいいじゃないかと、太陽は緑色であってもいいじゃないか。何故いいかと言うと作家の個性、自由な発想、こういうものを重視した、いわゆる近代としての自我、そういうものを中心としたものを、ここで主張したわけです。文部省の見解では明治44年の文展以降を近代と設定をしていますが、美術史の中では、ひとつの見方としまして、高村光太郎が『昴』に発表した「緑色の太陽」いわゆる作家の自我の表出時代。これをもって、「近代の絵画が始まる」「近代の美術が始まる」という位置づけもされています。そういう設定の中で、第1位に存在価値を発揮したのが藤井達吉だと私は思います。これは具体的な例を申し上げますと、大正年間にですね。ごめんなさい明治の終わりにフュウザン会という展覧会が開催されます。これは主に、1905年頃にフランスで起こりましたフォーヴィスムとか、ドイツでの表現主義とか、そういう表現方法に影響を受けた自由な発想、自由な色彩表現による作調を示した洋画家たちの集まりでした。例えば、岸田劉生とか、萬鉄五郎といったような近代の美術史に燦然と輝く作家たちのグループです。その中に、何故か藤井達吉が入っています。異色なのは工芸家として参加したのが藤井達吉、そして、画家が中心になったグループですが、藤井と並んで異色なのが彫刻家の毛利教武でした。毛利教武という作家は、ちょっと話は飛びますけれども、実は藤井達吉とは非常に親密な間柄であったわけです。
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碧南芸術文化振興会設立総会記念講演(講演者:木本 文平氏、期日:平成13年2月)
(『碧南藤井達吉芸術文化現代』第1号〜第3号を補訂)
